ミンミン蝉の鳴き音

「やツ!」と叫んで、いきなり柱のてつぺんへ飛びついた。……しつかりと、出来るだけ体を小さくして、しがみついた。そして眼を瞑つて、左手で軽く鼻をつまんで、「ミーン、ミーン、ミーン。」と高らかに鳴いた。「ミーン、ミンミン、ミーン。」 一寸静まつた大広間中に、ミンミン蝉の鳴き音が、夏の真昼の静けさを思はせて、麗朗とこだま[#「こだま」に傍点]した。 だが次の瞬間、大広間は嘲笑と罵りに満ち溢れた。「馬鹿にしてゐやアがらア。」「彼奴は始めツから浮かぬ顔をしてゐた、折角の会にケチを附けようと思つてゐるんだ。」「彼奴はさつきから吾々の座興を眺めてにや/\してゐたが、さては馬鹿にしてゐたに違ひない。」「失敬な奴だ、ワセダの芋書生ツ。」「何てイケ好かない真似をする人でせう。」「引ずり降して畳んぢめ!」 木枝の影に蝉が一匹止つてゐる。夏を惜んで切りに鳴き続けた――悪気なんて毛頭あつた筈はない、滝野はたゞさういふ閑寂な風景を描出したつもりなのだ。懸命になつて一幅の水彩画を描き、点景として蝉を添へたのだ。 だが彼は、もう少しの間見物人が静かだつたら――そこに悪童が現れて、袋竿で憐れな蝉を捕獲しようと忍び寄る風情を、鳴き続けてゐる蝉の細い思ひ入れで現し、悪童の接近を意識した蝉は、未だ/\大丈夫だといふ風に歌ひながら静かに梢を回り、いよ/\袋が近付いた瞬間に、(どつこい、さうはゆかない、あばよ。)とばかりに、尿を放つて空中に舞ひ上る――ところでこの演技を終らす考へだつたが、――そんなことをしないで好かつたと思つて秘かに胸を撫で降した。

 周子は、一日も早く郊外に家を探さなければならないと思つた。郊外に家を定めたら、夫は夫、自分は自分で、常々憧れてゐる文化的生活を営まうなどゝ思つた。「二階があなたの部屋で、階下《した》が完全に私の部屋ですよ。私が何んな風に飾らうと口を出さないで下さい、あなたの迷惑にさへならなければいゝでせう。」「それも好いだらう。」

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