中学時代は呑気で好かつた

「お互ひに中学時代は呑気で好かつたね、だがまア好いさ、忙しいのは結構だよ、寸暇を盗んで斯ういふ書生式の会合をするのも、これがまた一寸オツ[#「オツ」に傍点]ぢやないか。」 そんなことを云ひながら参々伍々滝野の旧友は、溌溂たる勢ひで集つて来た。 滝野は、度胆を抜かれたかたちで隅の方に堅くなつてかしこまつてゐた。

(今晩は、さぞ/\酔つて帰つて来るだらうな、一日も早く郊外にでも家を借りなければならない、あの人に任せて置いたのぢや何時のことか解りはしないから思ひ切つてあしたから新聞をたよりに家探しに出掛けようかしら……それにしても、もう十二時も回つたと云ふのに未だ帰る気配がない、この分ぢや定めし酷いことに違ひない、それともあんなに浮々して出掛けて行つた処を見るとアソビ[#「アソビ」に傍点]にでも回つたのかな、東京の遊里はさぞ好いだらうなどゝいふことを好く洩らしてゐたから。) 周子は、習字の筆を置いてそんな思ひに耽つてゐた。これから帰られて、一騒ぎやられることを想像すると、たまらなかつた。アソビにでも何にでも行つて、帰つて来なければ好いが――思はず彼女はそんなことを念じた。(東京の美しい、義理堅い花柳界を知つたならば、幾分かオダワラ育ちの野卑の教養にもなるだらう。) 田舎に居る時分彼女は、時々夫の書架から翻訳小説や日本現代の新しい小説集を借り出して読んだこともある。その中には遊蕩の世界を巧みに描いた小説があつた。遊里に沈湎し酒に浸つて、そゞろ人生の果敢なさを思ひ、自らの芸術の糧とした傑れた小説があつた。悪友に誘はれて酒に親んで行く細いいきさつを描いて真珠のやうな光りを放つた短篇があつた。違い海辺の国の美しい歌妓に恋して遥々と汽車に運ばれて行く主人公の為に、人ごとながら思はず涙を誘はれたこともあつた。――それらの小説を読んでゐながらどうしてあの人は、あんなにも心が鈍いのだらう、彼の人の生活のうちには、酒は飲むばかりで、あれでは何と生かしようもないだらう、心が発展しないのは明らかなことで、小説など書ける筈がない、それが証拠には彼の生活の何《ど》の一端を捕へても、それには五分の光りも見出せない、叙情味もない、思索もないと云ふて深刻な憂鬱もなければ、倦怠《アンニユイ》の人生も覗かれない……意久地なさ、悪るふざけ、他人の悪口、おべつかつかひ、さう思つて彼女の知るだけの夫の経験を回想して見たが、そこにも何の「小説」はなかつた――。彼女は、今宵夫が、旧友に誘はれて遊里へ赴くことを心から祈つた。 頼りない無能の夫の為に健気な祈念を凝らす――彼女はそんな想ひを拵へて、思はず自分自身に恍惚とした。

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