直立不動の姿勢を執つた

「げツぷ……うむ、斯う馬鹿にされて黙つて引つ込むわけには行かない、歌も許されず、踊りもいけないとなれば、吾輩だつて生きてゐる以上は、生きてゐるといふ何らかの証拠を見せなければ、承知が出来ない、……何を演らうか、何を喋舌らうか、どうすればいゝんだらう。」 彼はそんなことを云ひながら暫らく凝ツと考へた後に、仰山に膝を叩いて、「よしツ!」と叫んだ。――「と云つても、どうも弱つたなア……斯う行き詰つては仕方がないなア……よしツ、兵式体操でもやつて見よう。」 さう云つて彼は、直立不動の姿勢を執つた――この上、そんな馬鹿なことを演られては堪らないと気づいた周子は、勇気をふるつて再び夫に飛びついた。そして、五体に満身の力を込めて、やつとのことで彼を寝床の上にねぢ倒し、頭の上から被着《かひまき》をかぶせて、しつかりと圧へつけて離さなかつた。そして口のあたりを、拳固をかためて塞いだ。その下で滝野は、あらん限りのしやがれ声を振りしぼつて、「前へ――進めツ!」とか「回れ右、前へ、おいツ。」とかなどと、勇敢な号令をかけてゐた。だが、好いあんばいに――と周子が思つたことには、それらの懸声は、ハンケチをつめ込んで吹き鳴してゐるラツパの音のやうに、重苦しく微かにかすれて、四隣に響きわたることはなかつた。 翌朝早く、西隣りの洋館に住んでゐる温厚な文学士が、滝野の朝寝坊の戸を叩いた。文学士は、近隣の迷惑を代表して、抗議と親切な注意とをもたらせたのである。 滝野は、何の返す言葉もあらう筈はなく、たゞぺこぺこと安ツぽく頭をさげてゐたばかりだつた。 その日から彼は、苦い顔をして机の前に坐り始めた。 周子は、その夫の姿を眺めると、わけもなく可笑しさが込みあげた。(黙つて飯を食ふと、直ぐに彼の人は机の前に坐つて、物々しい顔つきをして煙草ばかり喫してゐる、此方だつて口なんて利き度くもない、清々と好い、だが一体あゝして何を考へてゐるんだらう、――若しかするともう月末も近いことだし、多分、今度は何と嘘をついて国許から金を取り寄せようか? そんなことをでも思つてゐるんだらう、だけど母親などにあんな大きな法螺を吹いて、東京へ出て来たのも好いが、一体どんな了見を持つてゐるんだらう、そんなことでも一寸でも聞かうものなら、自分が馬鹿で寂しいもので、大変口惜しがつて、物を壊したりするんだから、聞いて見るわけにもいかない……あゝ、飛んでもない奴と結婚したことだ。)

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