子供を寝かしつけてから

「よしツ、もう決心した。これから俺は東京市民にならなければならないんだからね、浮《う》か/\してもゐられまい。」彼は、生真面目な心でさう云つた。周子に非難されてゐる事実ばかりでなく、広く自分の生活にそんな風な楔を打たなければならない気がした。 その晩も滝野は、遅くまで帰らなかつた。 周子は、子供を寝かしつけてから、灯火を低く降して習字をしてゐた。あたりは森閑として、時たまけたゝましい響きをたてゝ走る自働車の音が消ゆると、何処からともなくもう秋の虫の声がした。「斯う遅いんぢや、さぞかしまた酔つて帰つて来ることだらう。」 周子は、そんな心配をしながら、健腕直筆の心をこめて習字してゐた。酒を飲む他に何の能もなく、余技に親しまうとする澄んだ精進の心のない野卑な夫に、一層習字をすることをすゝめようかしら、などゝ思つた。「ぢや、さよならとしようかア、まア好いだらう、僕の処でもう少し飲まう/\。」 突然往来から、怒鳴るやうに大きく濁つた滝野の声が響いた。周子は、思はずハツと胸を衝かれて筆を置いた。(体の小さい奴に限つて、酔ひでもすると、とてつもなく大きな声を出したがるものだ、豪勢振つて――)周子はそんなに思ふと気持の悪い可笑しさと、唾でも吐き度い程の憎くさを感じた。「もう君、遅いよ/\。」 その声は、遠慮深く、迷惑さうに低いのである。「僕の家なら好いだらう、借りてる以上は俺の自由だ。」 何処かで追ひ立てられて来たんだな――と周子は思つた。時計を見ると、もう二時に間もない。(借りてる以上――とは何たる馬鹿だらう、卑しい法律書生でも云ひさうなことだ、法律書生なら安眠妨害といふ罪を知つてゐる、小田原の漁師のやうだ。)周子は、カツとして机を叩いた。「止さうよ/\。」「もう少し芸術の話を続けよう。」(チヨツ/\!)周子は強く舌を鳴した。「芸術の話ならしようか。」

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