身動きもせず

 滝野は、身動きもせず凝つと煙草を喫してゐるばかしだつた。そして小声で、「ゆうべも酷かつたかね。」と訊ねた。「ほんとうにあなた、何かお習ひなさいよ、ちやんと纏つた芸を――」「何が好いだらう、長唄でも……」「声が悪いから、それもね……」さう云つて周子は、苦笑を浮べた。「ゆうべはどんなに騒いだ。」 独りだつたから大して酔つたわけでもなく大体覚えてゐたが、馬鹿/\しくて知つてる振りも出来なかつたので滝野は、狡くそんな退儀な質問を発した。――そして若し周子が、実際以上に少しでも誇張したら、軽蔑してやらうなどと思つたりした。「いつもの通りよ。」周子は煩さゝうに云つたばかりだつた。「いつもの通りとは、何ういふことだ、はつきり云つたら好いだらう。」「都の西北[#「都の西北」に傍点]――を何辺やつたことでせう。」 都の西北、といふのは滝野が四五年前、それも落第を重ねた後に漸く末席をもつて卒業した或る私立大学の校歌のことだつた。「それから、野球の応援歌!」「それをやつては恥かね。」「恥ですよ。」周子は疳癪を起して、金切り声で叫んだ。――滝野は、隣りに聞えるから止めろといふ意味を眼つきに表して、女のヒステリツクの発作を制御した。「チエツ! 昼間になつていくら遠慮深くしたつて何になるものですか。」「そんならもう止さうよ。」と滝野もムツとして、横を向いてうなつた。「救かるわ!」「誰がやるものか。」「断言しましたね。」

— posted by id at 11:12 am  

T: Y: ALL: Online:
Created in 0.0438 sec.

http://infogorilla.jp/