懶《けだる》い笑方をして

『ワツハハ。』懶《けだる》い笑方をして、松太郎は顔を上げた。『ハツハハ。酔へエばアア寝たくなアるウ、(と唄ひさして、)寝れば、それから何だつけ? ※[#「口+云」、第3水準1-14-87]《うん》、何だつけ? ハツハハ。あしきを攘《はら》うて救けたまへだ。ハツハハ。』と、再《また》グラリとする。『先生様ア酔つたなツす。』と、……皺くちやの一人が隣へ囁いた。『真箇《ほんと》にせえ。帰《けえ》るべえが?』と、その又隣りのお申婆《おさるばあ》へ。『まだ可《え》がべえどら。』と、お由が呟く様に口を入れた。『こら、家《うち》の嬶、お前は何故、今夜は酒を飲まないのだ。』と松太郎は再《また》顔を上げた。舌もよくは廻らぬ。『フム。』『ハツハハ。さ、私《わし》が踊ろか。否《いいや》、酔つた、すつかり酔つた。ハハ。神がこの世へ現はれて、か。ハツハハ。』と、坐つた儘で妙な手付。 ドヤドヤと四五人の跫音が戸外《そと》に近いて来る。顔のしやくつたのが逸早く聞耳を立てた。『また隔離所さ誰か遣られるな。』『誰だべえ?』『お常ツ子だべえな。』と、お申婆が声を潜めた。『先刻《さきた》、俺ア来る時《どき》、巡査ア彼家《あすこ》へ行つたけどら。今日検査の時ア裏の小屋さ隠れたつけア、誰か知らせたべえな。昨日《きのな》から顔色《つらいろ》ア悪くてらけもの。』『そんでヤハアお常ツ子も罹《かか》つたアな。』と囁いて、一同《みんな》は密《そつ》と松太郎を見た。お由の眼玉はギロリと光つた。 松太郎は、首を垂れて、涎《よだれ》を流して、何か『ウウ』と唸つてゐる。 跫音は遠く消えた。『帰《けえ》るべえどら。』と、顔のしやくつたのが先づ立つた。松太郎は、ゴロリ、崩れる如く横になつて了つた。 それから一時間許り経つた。

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