下層人民の發達

 尚ほ一歩を進めて、本邦史上に於ける足利時代の出色なる所以を擧ぐれば、それは下層人民の發達である。抑も武家政治が始まつてから、社會の中心も亦下に移つたことは、これ吾人の屡々論ずる所であるが、しかし鎌倉時代の間は、武士といふものが社會の表面に浮き出しただけで、平民といふものは、まだ物の數に算へられて居らぬ。嚴密に云へば、或は既に物の數に入つて居つたらうと思はれる節もあるけれど、之を徴するに足るべき文献は甚少い。然るに足利時代に入ると此平民と云ふものが、中々に侮り難い社會的勢力となつて來る。平民の中に算へらるべきものゝ一なる彼の近畿の和戰の決を左右したといふ堺商人のことは、今更繰り返して論ずるまでもないが、それ等よりも遙に低い生計を營んだもの、即ち現代の通用語を借りて云へば、所謂第四級民なるものも此時代に於ては可成りの勢力となつた。土一揆の爲めに大小名が苦められたこと屡々であるのみならず、將軍と雖、亦これが爲めに惱まされたといふのは、これ即第四級民の下尅上であつて、而して其姑息な療法として實施された社會政策は、實に彼の枚擧するに遑なき程の徳政である。之を歐洲の歴史に徴するに、宗教改革の運動に伴ひて、多く平民の崛起を見るを例とする。英吉利のロラード、ベーメンのフッシイテン等皆それであつて、佛國にも亦此種の運動があつた。就中最も後れて起つたのは、ルテルの改革運動に伴ひて發生せる、有名なる獨逸の農民の亂である。此農民の亂なるものは歐洲に於ける第四級民の最初の大運動であると云ふ所から、特別の興味を以て西洋の史家に研究せられて居る題目であるが、吾人は我國足利時代の土一揆を以て、正に此農民の亂と併せ考へて、互相發明する所あるべきものであると確信する。 斯くの如く論じ去り論じ來れば、鎌倉時代に於て既に宗教改革を成就した我國は、尚ほ足利時代を終るまでに、文藝復興、都市の勃興、海外遠征、及び平民勢力の發達等、凡そ歐洲の中世史に於て大事件と目せらるゝ殆ど總てのものを經驗し了つたと云て差支ない。事件によつては歐洲に顯著にして、我國に稀薄であるものもあるけれど國情の異る所、多少程度の相違のあるのは、當然のことである。して見れば歐洲の歴史に於て、十六世紀の宗教改革以後を斥して近世と云ふと同じく、足利時代に接する徳川時代を以て、我國の近世史となし、此兩時代の間に一段落を劃するを、研究の便宜上適當と認めざるを得ない。 最後に論じなければならぬのは、我國史に、特に足利時代といふ一時代を劃する必要の有無である。足利時代の終りについては、今論じた所に讓つて別に辯じないが、其足利時代と鎌倉時代との間に段落を設くることにつきては、少しく言を費す必要がある。鎌倉時代と足利時代とは、共に日本の中世史に屬すべきものであると同時に、兩者の間に差別があるのは、恰も歐洲の中世に於ても、其前期と後期と一概に論ぜられぬのと同樣である。一言を以て言へば、鎌倉時代の文物の特色は、其ナイーヴな點にあるのであるが、これは足利時代に於て大に缺乏して居るものである。ナイーヴな度は、鎌倉時代の末期に於て漸次に減退し、足利時代に入りて甚しく稀薄となつて居る。足利將軍が其政廳を京都に置いたことは、單に政治上のみではなく、所謂文明史から見ても、重大な事件であるのみならず、抑も政治と文明とは、實に決して沒交渉のものではなく、文明の諸要素中、政治が其最も重大なものであることを考ふる時は、吾人は我國史に特に足利時代を設くることの決して徒爲でないことを信ぜざるを得ぬのである。

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