足利藤原の兩時代を比較して見やう

 次に吾人は色に譬へて足利藤原の兩時代を比較して見やうと思ふ。松の緑の間に朱の鳥居といふ取り合はせは、奈良や京都に多く見る所の景色であつて、吾人は之に對する毎に藤原時代を追想せざるを得ない。倭繪の主色である所の緑と朱とが、藤原時代の代表的色彩であるとすれば、足利時代は銀色である。藤原時代が緑朱二色の中で、主として孰れに傾いて居るかは、一寸決し難い問題であるのみならず、簡單な色に配して、以て複雜なる時代の特徴を表示し盡くすことは、抑も無理な注文かも知れぬが、然かし足利時代は慥かに銀色である。而かも※[#「金+肅」、第3水準1-93-39]びた銀色であることは、動かし難い評であると信ずる。足利時代のすべての事物は、皆此銀地を土臺として、其上に畫かれて居るのであつて、彼の多年江湖に落莫し、朝倉家に投ぜむとして、琵琶湖を渡れる義昭將軍が詠じたと云ふ、蘆花淺水秋なる句は、實に此銀色を遺憾なく發揮して、足利文物の總まくりをなしたものと云つて差支ない。 連歌も亦足利時代の特徴の一面を代表するものである。論者の中には此時代の文物を一括し、禪の一端を以て之を擧ぐるものがある。これは一理ある説で、榮西によつて興つた禪宗は、既に鎌倉時代に於て宮廷にも入り、又數多の武將の歸依をも博したけれど、要するに禪宗の鎌倉時代に於ける活動は、地位あり文字ある少數者の修養に影響したに過ぎぬので、禪宗と一般文明との關係は、鎌倉時代に於ては、未だ密接だとは云ひ難い、禪宗が一般文物に浸潤したのは、足利時代に至りて始めて認めらるべき現象である。換言すれば所謂禪味なるものは、足利時代に於て始めて顯著なるものである。されば此點からして論ずる時は、禪が足利時代の代表であるとも云ふ事が出來る。或る論者はまた茶の湯の一端を以て東山時代の文明を括擧し得るものだと云ふ。これも亦尤な説で、茶の湯こそは鎌倉時代及び其以前には無く、全く足利時代に始まつたものである。然れども若し足利時代の自暴自棄に陷りて居るさまを表示するに、最も適當なものを求むるならば、それは連歌に越すものはない。連歌は其淵源甚古くして、決して足利時代に始まつたものではないけれど、足利時代以前の連歌と云ふものは、上句と下句と合して、渾然たる一首の歌を成すものであるに反し、足利時代に盛を極めた連歌は、上句と下句との間に少しのヒッカヽリがあるのみで、意味の完全なる連絡とては見出し難く、要するに際どい機智の運用を貴としとするのみである。而して連歌に「て」の字を以て結べるものゝ多いのは、これ即ちウッチャリの氣象を自ら發露したもので換言すれば自暴自棄を表示するものである、絶望を語るものである。若し吾人の説を疑ふ人があるならば、試に連歌の集を繙いて見るがよい。必ず吾人と所感を同くするに違ひない。さてまた宗祗其他の連歌師が、田舍の風流氣ある大小名の招きに應じて、遍歴に暇なかつたのは、彼の歌枕をさぐりに出たと云ふ藤原時代の歌人と大に其趣を異にして、文藝の行商人たる點に於ては、歐洲の中世にあつたと云ふ、ミンネゼンゲルやトルバドールに類似して居るけれど、我國に於て適切に此西歐の漫遊藝術家に相當するものは、足利時代の連歌師よりも寧ろ平泉の秀衡若くは鎌倉將軍の幕庭に收容された歌人又は伶人の徒である。足利時代の連歌師は、ミンネゼンゲルやトルバドールに比べて、權威が少い、熱がない、温みが乏しい。澁いと同時に甚淋びしいものである。ワルトブルグの歌ひ戰の如きは到底彼等連歌師に望み得べきものではなかつた。 さりながら銹びたりと雖銀色なる足利時代には、淋びしげなる光りがある。散文的な實際的な鎌倉時代とは少からぬ相違がある。此點に於て足利時代は歐洲第十八世紀に於けるロココ式の文物に似たとも云へるだらうと思ふ。散文的な十七世紀に比べたならば、次の十八世紀は光澤に於て大に優る所のものがある。それと同じく足利時代は、之を鎌倉時代に比して、新鮮な活力を有する點に於てこそいくらか遜色があるけれども、而かも鎌倉時代に缺乏して居る光澤といふものがある。デカダンと云へばそれまでゞあるが、光澤はやはり光澤である。然らば如何なる種類の光澤かと云ふ問が起らうが、適切な例は能衣裳である。能衣裳の今日傳はつて居るものゝ中には、無論徳川時代の意匠に成れるものも混じて居やうが、大體に於ては吾人は之を足利時代の意匠だと思ふ。而して此能衣裳ほど適切に足利時代の好尚を表露したものはない。とり分けて微かに金絲を文どつた能衣裳に對して此感が最も深いのである。斯かる能衣裳を着けて居りさへすれば、極めて現代的な能役者に舞はせても、それでもなほ四條の河原能の光景を想ひ浮べることが出來る。能樂を以て西洋の歌劇に擬し、其中に存する所の、現代趣味に追從し得る部分をのみ樂む場合は別として、若し多少の史的興味をも混じて能樂を觀やうとならば、能衣裳は缺くべからざる附き物であつて、袴能や素謠のみでは、迚も此感興を遺憾なく與ふることが出來ぬ。而して此能衣裳が即ち實に吾人をして足利時代とロココとの相似を思ひつかしむる種となるものである。ロココの美術には金色の燦たるものがないではない。併しながら其金色は金閣寺の金色、能衣裳の金色と同じであつて、金色其ものゝ本性を發揮さす爲めと云はむよりは寧ろ其光によつて周圍の淋びしさを掲焉に反映する爲めに、換言すれば對照の具として用ゐられて居ると云ふ方が適當であると思ふ。換言すればロココを文やどる金色は極めて微かなものであつて、ロココの全體の銀色であることは決してこれが爲めに妨げられて居らぬやうに思はれる。加之瀟洒たるロココの後に燦爛として且つ堂々たるアムピール式の接するのは、丁度我國に於て足利文物の後に桃山式なるものゝ來ると一般で此點に於ても東西趣を同くする所がある。此の如く論じ來らば、或は吾人の説を難じて、西史に於けるルネッサンスは中世的であるに反し、ロココは近世に屬するものである。然るをルネッサンスに似たる足利時代が亦ロココにも似ると云ふは、これ甚しき矛盾であつて、論旨の歸著する所を知るに苦むと云ふ人もあるかも知れぬ。然れどもロココなるものは、或意味からして論ずれば即ち第二のルネッサンスであるから、足利時代が、此兩者に共通な點があると云ふことは、格別驚くに足らぬことである。但し斷はつて置くが足利時代はロココよりも寧ろルネッサンスに近く、近世的ではなくして、中世的と云ふべきものである。

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