顔は始終晴々としている

 木村はゆっくり構えて、絶えずこつこつと為事をしている。その間顔は始終晴々としている。こういう時の木村の心持は一寸説明しにくい。この男は何をするにも子供の遊んでいるような気になってしている。同じ「遊び」にも面白いのもあれば、詰まらないのもある。こんな為事はその詰まらない遊びのように思っている分である。役所の為事は笑談《じょうだん》ではない。政府の大機関の一小歯輪となって、自分も廻転しているのだということは、はっきり自覚している。自覚していて、それを遣っている心持が遊びのようなのである。顔の晴々としているのは、この心持が現れているのである。 為事が一つ片附くと、朝日を一本飲む。こんな時は木村の空想も悪戯《いたずら》をし出す事がある。分業というものも、貧乏|籤《くじ》を引いたもののためには、随分詰まらない事になるものだなどとも思う。しかし不平は感じない。そんならと云って、これが自分の運だと諦《あきら》めているという fataliste《ファタリスト》 らしい思想を持っているのでもない。どうかすると、こんな事は罷《や》めたらどうだろうなどとも思う。それから罷めた先きを考えて見る。今の身の上で、ランプの下で著作をするように、朝から晩まで著作をすることになったとして見る。この男は著作をするときも、子供が好きな遊びをするような心持になっている。それは苦しい処がないという意味ではない。どんな sport《スポオト》 をしたって、障礙《しょうがい》を凌《しの》ぐことはある。また芸術が笑談でないことを知らないのでもない。自分が手に持っている道具も、真の鉅匠《きょしょう》大家の手に渡れば、世界を動かす作品をも造り出すものだとは自覚している。自覚していながら、遊びの心持になっているのである。ガンベッタの兵が、あるとき突撃をし掛けて鋒《ほこ》が鈍った。ガンベッタが喇叭《らっぱ》を吹けと云った。そしたら進撃の譜《ふ》は吹かないで、〔re'veil〕《レウエイユ》 の譜を吹いた。イタリア人は生死の境に立っていても、遊びの心持がある。兎に角木村のためには何をするのも遊びである。そこで同じ遊びなら、好きな、面白い遊びの方が、詰まらない遊びより好いには違いない。しかしそれも朝から晩までしていたら、単調になって厭《あ》きるだろう。今の詰まらない為事にも、この単調を破るだけの功能はあるのである。 この為事を罷めたあとで、著作生活の単調を破るにはどうしよう。それは社交もある。旅もある。しかしそれには金がいる。人の魚を釣るのを見ているような態度で、交際社会に臨みたくはない。ゴルキイのような vagabondage《ワガボンダアジュ》 をして愉快を感じるには、ロシア人のような遺伝でもなくては駄目《だめ》らしい。やはりけちな役人の方が好いかも知れないと思って見る。そしてそう思うのが、別に絶望のような苦しい感じを伴うわけでもないのである。 ある時は空想がいよいよ放縦になって、戦争なんぞの夢も見る。喇叭は進撃の譜を奏する。高く※[#「敬/手」、第3水準1-84-92]《かか》げた旗を望んで駈歩をするのは、さぞ爽快《そうかい》だろうと思って見る。木村は病気というものをしたことがないが、小男で痩《や》せているので、徴兵に取られなかった。それで戦争に行ったことはない。しかし人の話に、壮烈な進撃とは云っても、実は土嚢《どのう》を翳《かざ》して匍匐《ほふく》して行くこともあると聞いているのを思い出す。そして多少の興味を殺《そ》がれる。自分だってその境に身を置いたら、土嚢を翳して匍匐することは辞せない。しかし壮烈だとか、爽快だとかいう想像は薄らぐ。それから縦《たと》い戦争に行くことが出来ても、輜重《しちょう》に編入せられて、運搬をさせられるかも知れないと思って見る。自分だって車の前に立たせられたら、挽《ひ》きもしよう。後に立たせられたら、推《お》しもしよう。しかし壮烈や爽快とは一層縁遠くなると思うのである。 ある時は航海の夢も見る。屋の如き浪を凌《しの》いで、大洋を渡ったら、愉快だろう。地極の氷の上に国旗を立てるのも、愉快だろうと思って見る。しかしそれにもやはり分業があって、蒸汽機関の火を焚《た》かせられるかも知れないと思うと、enthousiasme《アンツウジアスム》 の夢が醒めてしまう。

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