本能的掃除の音が歇《や》んで

 隣の間では、本能的掃除の音が歇《や》んで、唐紙が開いた。膳《ぜん》が出た。 木村は根芋の這入《はい》っている味噌汁《みそしる》で朝飯を食った。 食ってしまって、茶を一杯飲むと、背中に汗がにじむ。やはり夏は夏だと、木村は思った。 木村は洋服に着換えて、封を切らない朝日を一つ隠しに入れて玄関に出た。そこには弁当と蝙蝠傘《こうもりがさ》とが置いてある。沓《くつ》も磨いてある。 木村は傘をさして、てくてく出掛けた。停留場までの道は狭い町家続きで、通る時に主人の挨拶《あいさつ》をする店は大抵極まっている。そこは気を附けて通るのである。近所には木村に好意を表していて、挨拶などをするものと、冷澹《れいたん》で知らない顔をしているものとがある。敵対の感じを持っているものはないらしい。 そこで木村はその挨拶をする人は、どんな心持でいるだろうかと推察して見る。先ず小説なぞを書くものは変人だとは確かに思っている。変人と思うと同時に、気の毒な人だと感じて、〔prote'ge'〕《プロテジェエ》 にしてくれるという風である。それが挨拶をする表情に見えている。木村はそれを厭《いや》がりもしないが、無論|難有《ありがた》くも思っていない。 丁度近所の人の態度と同じで、木村という男は社交上にも余り敵を持ってはいない。やはり少し馬鹿《ばか》にする気味で、好意を表していてくれる人と、冷澹に構わずに置いてくれる人とがあるばかりである。 それに文壇では折々退治られる。 木村はただ人が構わずに置いてくれれば好いと思う。構わずにというが、著作だけはさせて貰いたい。それを見当違に罵倒《ばとう》したりなんかせずに置いてくれれば好いと思うのである。そして少数の人がどこかで読んで、自分と同じような感じをしてくれるものがあったら、為合《しあわ》せだと、心のずっと奥の方で思っているのである。 停留場までの道を半分程歩いて来たとき、横町から小川という男が出た。同じ役所に勤めているので、三度に一度位は道連《みちづれ》になる。「けさは少し早いと思って出たら、君に逢った」と、小川は云って、傘を傾けて、並んで歩き出した。「そうかね。」

— posted by id at 04:41 pm  

T: Y: ALL: Online:
Created in 0.1156 sec.

http://infogorilla.jp/